性の悩み女性の「性の悩み」相談
青春の思い出〜若い人に寄せて
日時: 2008/09/07 23:47
名前: 北国

 小生の青春時代に、ITとこのような画期的なサイトがあれば、友人にも言えない悩みを投稿したことでしょう。
 もはや現役で相談できることはないのですが、近年やっと自分の時間がもてるようになり、懐かしく青春を思い出しては胸が熱くなっています。
 そしてたまたま拝読するうちに、小生がどうしても知りたかったことを書こうと思い立ちました。

 女の子(女性)に、年甲斐もなくお聞きしたいと思います。
 相談というより思い出の痴話ばなしになるので、お目汚しなら読み飛ばして下さい。

 小生は、生まれてからずっと北海道の港町で生活しています。
 基本的には生家の漁業です。
 一昨年に母校(高校)の近所に引っ越し、遥かな後輩の学生を日々見ているうちに心があの日に帰りました。

 小生の高校時代は昭和50年代前半でした。

 恥ずかしながら小生は、人生でただ1人の女性いや当時は「女の子」と愛し合いセックスの喜びを経験したことがあります。
 相手は、小学校から高校まで一緒の学校に通った女の子です。
 育ちのよいお嬢さんでした。端正で朗らかな素敵な女の子でした。
 いわゆる初恋です。彼女が小生にとって最初で最後(おそらく)の恋人になりました。
 
 中学の時は勉強も競い合いました。彼女の気を引きたかったからでしょうね。

 精通の始まった頃から、彼女の裸と女性器を想像しては毎日毎晩自慰を繰り返していました。
 その年頃の男子はそういうものでしょうが、とくに小生は性欲の強さに悩みました。
 ただその強さは、むやみにエッチだけがしたいのでなく、女の子の美しさや優しさに惹かれた強い恋心と連動した気持ちでした。
 その彼女に女の子(女性)の理想をみていました。

 胸躍る初恋から情熱的な性愛に変わっていった時期でした。
 
 率直に恥を書くなら、彼女を想っては射精してばかりいました。日に数回、精液の量は多くてほとほと後始末に困りました。

 思えば、当時の高校生は今よりずっと増せていました。
 (最近は小・中学生かと思う子が実は高校生だったりするのでギャップを感じます。)

 女子はスタイルもセクシーに魅惑的になって、しかも運動着はブルマーだったから彼女に悩殺されていました。
 正確にいうと、彼女を恋する小生にとってはたまらなかったものです。

 高校では違う部活でしたが、よく運動部で彼女と一緒に走っていました。
 (地域柄、夏はそれほど暑くもなく汗もほどほどです。町を一歩出ると自然しかないので走ることくらいしかなかったのです。)

 当時のブルマーだと、まぁその「女性器」ですね、そこのわずかな膨らみや割れ目の輪郭がくっきり見えてしまうことが多くて、男子は興奮していました。純朴でした。
 逆に何かをあてているように割れ目が覆い隠されていると、「生理だ生理だ」などと口さがない男子どもはふざけてこそこそと言っていました。
 小生は、そういう猥談は好まない生真面目なところもありましたが。小心だったのでしょう。
 
 たしかに、あの姿は教育上よろしくはなかったでしょうね。 

 本当は、ちらちらと彼女の股間ばかり目と意識がいっていました。 
 夏はブルマーの彼女と走って悩殺された後は、一目散に飛んで帰って何度も自慰をしていました。
 当時としてはせつなかったのですが、今思うと微笑ましくなります。

 恋の進展は、奥手な小生のこと、時間はかかりましたが濃密で有意義でした。
 成長の過程で何度か告白をしていました。
 中学の終わり頃に彼女に呼ばれて、「○○(北国)君、私のことそんなに好きなの」と真面目な顔で、親身に気持ちを確かめられたことがありました。その時は小生は正直に勇気が出ずにとぼけて話をそらしてしまいました。未熟でした。
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青春の思い出A ( No.1 )
日時: 2008/09/09 19:22
名前: 北国

 毎日毎晩、彼女を想い自慰を繰り返すこと数年。
 その間に失恋(彼女が別の男子に告白されるのではないかという)の危機もありました。

 待望のセックスに漕ぎ着けた時は17歳になっていました。

 自分で言うのは恥ずかしいから、「君を抱いていいの」という歌詞のニューミュージックのカセットテープを手紙と一緒に彼女にあげたりして、恋だけでなく性愛を求めていました。

 やはり一緒に走っている途中でした。
 そもそも夕方になると人気のほとんどない海岸です。平たい岩場(ベッドの代わりか)や漁具の物影で、当時は高校生や若いカップルが隠れて情事をしていました。
 
 最初の思い出は一生の思い出になっています。

 キスをしてから緊張と興奮で固まりました。
 いざとなると何もできないのは情けなかったのですが、純情だったのでしょう。
 しびれをきらしたのか、申し訳ないくらい恥ずかしそうに、彼女が体操着のTシャツを自分でめくってくれました。
 初めて見た純白のブラジャーに包まれた乳房の感動。言葉にならないです。

 やっと小生も一念奮起。
 何年も間近であって手の届かなかったブルマーの上から、触りたかったところを懸命に触り続けました。
 エッチの満足というより、一つ一つが言葉にできない感動でした。
 
 ただ恋する彼女のそこに触れるまではさらに勇気と時間が要りました。
 いろんな純情なためらいが入り交じった気持ちだったと思います。 
 頭の中に星がちらちらするくらいの恥じらいと度胸で、やっとのこと手を彼女の股間の奥に潜らせて、まずその温もりにはっとしました。
 それから恐る恐る女性器の割れ目を指でなぞり続けていました。 
 もっともブルマーの上からで、次に進む勇気はとてもなかったのですね。
 
 とはいっても小生も射精寸前。
 とにかく一刻も早く彼女の膣に男性器を入れて想いを遂げたい一心でした。
 それが堪えきれなくなって衝動的に進めたという具合でした。
 
 きっかけのもう一つは、彼女も女性器を触られ続けて「感じる」というのでしょうか、おそらくそういう状態になって、立っていられなくなって体を寝かせたことでした。 
 
 ブルマーに手をかけて下ろしていく、あのまどろっこしい感触と音と、何より彼女の若くて温かい女の子の性の薫りは今でも目の前にあるように覚えています。
 純白のパンティーを脱がしていく一コマ一コマで、見えてくる陰毛や女性器に固唾を呑んでいました。
 鮮烈な感動は涙が出るほど懐かしいものです。

 どうやって男性器を入れたのか、たしか仰向けになった彼女が脚を開いてくれたような記憶があります。
 きつい割れ目に押しつけてぐちゃぐちゃしているうちに下の方へ男性器が滑って、そのまま膣に入り込んでいったと思います。
 きついだけでなく、彼女の方は最初は痛かったようです。
 小生は、男性器をきゅっと包んでくれる温かな快感で言葉にならない喜びでした。
 感動は無限に広がる印象で残っていますが、あっという間。後でそこが子宮口と知った奥の丸い突起を押す刺激で、どっと完全に射精していました。
 自慰とはまったく違う、彼女の本当の女性器に包まれて子宮に精液を注いでいく至福はそれこそ言葉になりませんでした。恋し続けてきた「心」を彼女の中に注いでいく喜びでした。
 
 今思えば妊娠に直結する行為だったのに、当時は何のけれんみもなく純粋に喜びだけを満たしていました。
 感覚と勢いとしては、あの高校時代のたけだけしい量の精液を、彼女の子宮に届けとばかりに何度も注いでしまい…。

 当時は、今のように性に関する情報はなく、性教育も盛んでなく、コンドームを持ち歩くなど考えも及びませんでした。
 一度もコンドームは手にしませんでした。そういうものを持つことが何か不純なように思えました。
 ある意味で今と反対の感覚だったのかもしれません。

 最後の射精を終えた後も、彼女の体の奥まで精液が浸透していってほしいような最高の幸せを感じ、お互いによく腰を抱き合っていました。それは心の深い結びつきを感じる時間でした。

 もちろん妊娠の知識はありました。
 おそらく、そういうアタマで考える理性よりも、真剣な想いならば情にまかせていくような熱い時代だったのかなと思います。
 一つの恋愛に熟成するように時間をかけていく時代でしたし、セックスに至るカップルも今ほど軽々しく多くはなかったかもしれません。

 たしかに、セックスまで進んだカップルの場合、妊娠で悩める率は今より高かったかもしれません。

 すみません。思い出話で長くなってしまいました。
 質問にいきたいと思います。
 
〈質問1〉
 
 当時、セックスの後、彼女は起き上がってすぐにパンティーやブルマーを、ぴたっとはいていました。
 恥ずかしかったのかもしれません。
 たまに小生が堪えきれずに膣の先で精液を出したのを気にする様子はありました。しかし精液がこぼれ出てくる様子はなかったと記憶しています。

 最近、興味半分に「中出し」というアダルト番組などを見て、精液がほとんど全部こぼれ出てくるシーンばかりで驚きました。

 彼女の子宮の中などに完全に入っているとばかり信じていました。
 今になって疑問を強く感じています。興味本位かもしれませんが、女の子の体について教えて下さい。
 
〈質問2〉
 
 避妊のことを一言も口にせず、受けいれてくれていた彼女の気持ちを推測して下さい。
 小生などより聡明だった彼女は妊娠の危険をわかっていたはずだと思います。
 女の子としては、そういう場合、どういう気持ちなのか、あくまでも参考ですが聞かせて下さい。今にして思い出しては気になって仕方がありません。

 恐縮ですが、聞いてみたいことはその2点です。

 もちろん今は、小生の高校時代のようなセックス(避妊をしない)を、たとえ誠実なカップルであっても、学生のうちはするべきでないとは思っています。

 ところで、小生は現在も独身です。おそらく一生現実にはそうかと思います。

 当時の彼女を忘れたことはありません。いつまでも心の奥では「妻」と思い慕っています。
 彼女は東京の大学に進み(当時は優秀)、小生などよりもっと優秀な男性と出会い結婚しました。
 どこかで家庭を大事に育んでいることでしょう。
 
 小生は、高校を出てから親の面倒をみる必要もあり、兄弟たちの人生の世話をして今を迎えました。
 
 あらためてあの頃に夢を見たこともやってみようと少しずつ始めています。

 とっくに望むべくもありませんが、初恋から愛した彼女「N子さん」とのように、心も体も一心に女性を愛したい、そしてあのセックスの喜びを感じたいと思うこともあります。
 しかし、それは相手がN子さんでなければ。心の中では永遠に唯一無二の女性なのです。
 
 誰かに聞いてもらいたいような一方的な独白でした。お許し下さい。
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Re: 青春の思い出 ( No.2 )
日時: 2008/09/11 04:12
名前: 40過ぎのオッサン

素敵な青春時代の思い出ですね。

私の高校時代は、昭和50年代後半でした。
北国さんのような、セックスの喜びを感じた経験はできなかったですが、
自慰に耽った中学高校時代や、高校3年の時、当時の彼女(同じ高校の
2つ年下)に、手でしてもらった時の、自慰とは違う快感を思い出して
しまいました。・・・高校生どうしたったから、もしもの妊娠を心配して、
最後まではできなかったんですよね〜今思うと情けないですが。(笑)
彼女の卒業後、お互い初体験で、結ばれたものの、別れてしまい、今は、
それぞれ別の人と結婚しています。

あっ、すみません、自分のこと書いてしまいました。
素敵な青春時代の思い出を読ませていただき、私も、昔を思い出したので
書かせていただきました。・・・失礼しました!


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メンテ
青春の思い出B ( No.3 )
日時: 2008/09/11 23:15
名前: 北国

 「40過ぎのオッサン」様、はじめまして。
 思い出話にお付き合い頂きましてありがとうございます。
 また懐かしいお話を読ませて頂きました。

 その前にお一方、お返事を下さった女性がおられたと思うのですが記事が見あたらなくなっています。
 衝撃の事実を拝読してしまい、女の子の体と気持ちのことでもっと教えて頂きたかったのですが。

 ところで小生は、「40過ぎのオッサン」という気分には同調できないのをお許し下さい。笑
 
 昭和50年代後半の高校生の後輩たちを見ていると、恋愛も性交も急に活発でオープンになってきた驚きを覚えています。「現代的」な時代に変わった印象です。
 恋愛のA(キス)B(愛撫)C(性交)の言葉が出てきた頃ではなかったですか?

 小生の頃は、恋も性も「秘め事」という感覚でした。
 キスのことを「接吻」と書いていた記憶もあります。笑

 思えば、結婚したら子供はできるものという前提でしたし、既婚者も今ほど避妊をしなかったように思います。
 ついては婚前性交への抵抗も残る時代でした。
 学生や結婚前のカップルがセックスまで進む率も、今よりずっと少なかったようです。
 愛して愛してやまないというところまで絆が深まって「一線を越える」という具合でした。
 「あやまち」という表現をよく言われましたね。

 昭和50年代前半、小生の地域ではそもそもコンドームを入手することが難しかったのです。
 1、2件しかない薬局で、売っているであろう店も興味本位に知っていましたが、高校生がもし買ったら町の噂になって出歩けなくなったかもしれません。
 おそらく高校生にとっては高価であったろうし、コンドームは手が届かなくて初めから意識の外だった記憶があります。

 「直指庵」というお寺をご存じですか?
 京都の嵯峨野にあるお寺です。小生も懐かしくなって去る5月に京都を旅して探し歩きました。
 もう夏のように暑いのに驚きましたが。
 NHKの番組で、小生などが高校を卒業した頃に放送された記憶があり、調べて思い出しました。
 望まない妊娠をしてしまった若い女の子の「駆け込み寺」でした。
 生むか生まないか、悩みに悩んだ女の子の独白を綴ったノートが並んでいました。
 住職に相談に訪れる女の子もたくさんいたそうです。
 もっとも小生は男の子でしたから高校時代に訪れた経験はないですよ。

 金八先生のテレビでも、妊娠してしまった中学生のカップルが父と母になる決意をした話がありました。
 最後は周囲も祝福する形で結んでいました。

 思い出すと、当時は中学校を卒業すれば「大人」扱いでした。
 とくに小生の地域では、中学を出て就職した同級生もクラスに10人近くいました。

 それらの番組が放映された頃、高校生の間でもコンドームが出回り、避妊の意識が若者にも一般化してきた記憶があります。
 
 ただその弊害か、誠実な恋愛でなくても、気安く性欲の発散のためだけにセックスする風潮が広まってきたようにも感じました。

 現代は、ライフスタイルや人生観がそうなのでしょうが、即物的すぎて、本当の恋愛や愛情の感じ方がわからなくなっているようにも思えます。
 セックスを体験することに興味があるようで、知識が先行してアタマでっかちになっていませんか?
 
 最近の物欲と性欲だけしか関心のないような、暴力的で殺伐とした男女の様子は、小生にはオカルトか悪夢を見ている心地で信じられませんが。

 小生の青春時代の感覚では、離婚など考えも及ばない罪悪と思いましたし、恋愛もけなげに困難を克服して絆を深めていくものでした。
 そのカップルならではの哲学というか信条のようなものがありました。
 個人の身勝手な快楽欲求や物質的な打算よりも、愛情の絆を深めることに、人生の価値観を置いていました。
 高校時代のカップルでそのまま結婚した者も何組か知っていますし、それは自然なことに感じました。

 小生は前回秘め事を書いたように、高校2年生の夏に、N子さんという初恋以来の彼女とセックスに漕ぎ着けました。
 あの感動はつくづく言葉では言い表せません。

 恥ずかしながら自慰をしても次から次へと射精しないではいられない年頃だったので、気持ちは毎日でも彼女とセックスしたかったのです。
 もちろんそんなに頻繁にできませんでしたが、それは「妊娠させたらいけない」という意識よりも、恥ずかしかったからでした。
 
 やはり印象はブルマーですよね。
 当時は高校の制服のスカート(紺でした)の下に女の子はブルマーをはいていました。
 体育のある日は着替えでパンティーが見られないようにそうするのではないかと、男子どもは勝手に想像したものですが、昭和40年代後半のスカートめくりの流行が原因らしいですね。
 彼女は運動部だったのでいつもはいていましたが。
 
 学校から帰っても彼女の場合は、ブレザーやベストだけ脱いでブラウスの上にトレーナーを着るくらいで、下はそのまま制服のスカートという服装でした。

 夏は短い地域ですので、そういつまでも海岸でセックスはしておれず、家族が出払っている時を見つけてどちらかの家でしていました。
 彼女の部屋にこっそりとどきどきしながら人目を盗んで行くことが多かったです…。

 まずスカートをめくり上げて、同じ紺のブルマーに包まれた彼女の白い下半身に吸い込まれるように愛しました。
 全部脱いでもらう余裕がなく、1回目の射精は待てなかったのですね。
 ブルマーとパンティーの紺と白のコントラストがたまらなくセクシーに感じました。
 焦ると一緒に脱がしてしまった記憶もあります。
 
 彼女の女性器は「こじんまりとした陰毛の森の下の白桃のきゅっと閉じた割れ目」のようで、小生にとっては言葉にならない愛しさでした。
 そして温かく男性器を奥の奥まで優しくしぼるように包まれて至福に達して…渾身の力と愛情をこめて射精。
 子宮の粘膜に圧力と熱をかけて精液を充満させていく喜びに耽りました。

 2回目や3回目でやっと上を脱ぎ、純白のブラジャーをはずす喜び、ゴムまりのような乳房を愛してさらに満たして次の射精にいっていました。
 もちろん自分の精液が彼女の性器の奥に満ちていてそこにまた射精する感触でしたが、射精しきってもなかなか離れることはできませんでした。

 お互いに腰を抱き寄せ合うように、キスして「愛してる」と興奮でつぶやいて余韻を過ごしました。
 セックスの興奮でなければ、「愛してる」などとはふだんは恥ずかしくて言えなかったのですね。

 射精にいく愛情の高まりで、小生は彼女を「N子、N子」と素直に呼び続けていました。
 彼女も「あなた、あなた」と夢心地のような声で受けとめてくれていました。
 今思うと、高校時代にしては本当に愛し合う「夫婦」のようでした。思い出すと涙が出てきます。

 起き上がるのは、時間的にそろそろやばいという頃合でした。
 あのセックスの後の名残惜しさも忘れられません。
 男性器を抜く時は未練たらしく見たものです。

 彼女はすぐにパンティーをはいていました。彼女の家の時はブルマーはもうはきませんでした。
 だから…やはり精液は絶対にこぼれ出てこないものと信じきっていました。

 セックスした日数は、記憶では高校2年生の6月から夏休みいっぱいで区切ると20日前後でした。
 その頃はまるで「新婚」のような熱さでした。考えると、よくぞ妊娠しなかった…と思うのですが。
 
 9月になってからだんだんとお互いの進路の関係で、当時の心境でいえば思いもかけない別れに向かっていくことになりました。
 その話は…また次の機会に。
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青春の思い出C ( No.4 )
日時: 2008/09/12 23:13
名前: 北国

 続けて失礼します。
 書き始めると懐かしくも青春に残した思いが胸から溢れるようです。
 なぜ、今になって青春にタイムスリップしたような心地になっているかというと、いくつかきっかけはあります。

 一つは弟に家業を譲ったこと。実家も弟夫妻に譲りました。
 弟は自然の中で子供の人格を育てたいという願いで、思いきって東京の会社を辞め家も引き払って、戻ってきました。
 小生もそれならと、企業でのノウハウをもつ弟に漁業とちっぽけな食品加工業の経営を任せました。
 小生は相談役という肩書の外回りと雑用をしています。

 おかげで月月火水木金金という仕事漬けの人生から開放されました。
 土日は完全に休むようにしました。
 基本的に早朝からの仕事ですが平日も夕方には終えています。

 数年前に両親を続けて亡くしてから、家も独身の小生には持て余し、家族のいる弟に譲った形です。
 それまでは両親の面倒を長男の小生が一人でみていました。
 (弟や妹たちは東京や都市に出てしまったので。)

 今は前に書いたように母校の高校の近くの海が見える場所に「書斎」のような身の程の家を借りて悠々自適に過ごしています。

 家業を継いだ時代は零細極まりなく、両親を養うだけで精一杯でしたが、弟の意見で加工業を始めてからは多少は余裕が出てきました。
 そのおかげで「青春時代」に気持ちは舞い戻ることができました。

 再び思い出の話をしますと。

 小生は本当の気持ちとしては大学に行きたかったと思います。
 好奇心は旺盛で、自然や歴史や芸事やいろんなことに興味があって、かなり本気でやっていました。
 「図書館」は居場所でしたから。
 但し高校の授業は興味がなくて、自分でつっこんでいろんな本を読んでいました。

 N子さんからも「一緒に東京の大学に行ってほしい」と、ちらっと言われていたのを思い出します。
 彼女のその意思は非常に重要だったのに、当時の小生は気づけませんでした。
 家業と両親、それと弟たちの進学をどうにかしないといけない考えしか頭になかったのです。
 (今にして当時の関心事を再燃してやり始めていますが。)
 
 彼女は絵に描いたような優等生でしたから、小生の高校なら進学するのは当然でした。
 それが彼女の将来の幸せであることに気づけるのは、もっと後になってからでした。
 東京に目が向いている彼女と、いつまでも地元で何となく彼女と夢心地に過ごしていけると深く考えずにいた小生と、意識にズレが出ていたのに気づかなかったのですね。

 それどころか高校時代は、仕事に就いて彼女と結婚して幸せに暮らす夢ばかりみていました。
 小生にとって唯一の幸せは彼女との家庭をもつことでした。
 ただ彼女に告げる勇気はまだなかったのですが。

 高校2年生の秋になると部活は程々にしていました。
 彼女も小生も関心事は文化系だったので、運動部はあまり熱心ではありませんでした。
 田舎ですので満足できる文化部はなかったのです。
 いちおうは今で言う進学校だったこともあり、部活はありきたりの運動部がちょこっとあるくらいでした。
 あとは勉強しておけという校風でした。ただまぁ勝手にやっておけというのびのびした高校でしたが。

 小生は、学生やアマチュアで集まったバンドや合唱団に何回か参加しました。
 ほかに自然や星に親しむ会をよく主催したものです。

 その頃から彼女も進学やほかのお稽古事に関心が移っていました。
 学校がある日も帰りは一緒にならなくなり、部活で一緒に走ることもごくたまにで、日曜も彼女は町や札幌に行くようになっていました。
 
 今思うと、かといって小生との愛情が冷めたわけではなかったようです。
 むしろ彼女は彼女で、内心では小生との絆を守りながら進学をどうするか悩んでいたと思います。
 そういう表情も見えていたのかなと、今だから思えます。
 
 頻度は減っても、月に3〜4日、逢えた時はセックスをしてお互いの愛情を満たしていました。
 10月、11月と、彼女の方が忙しく、逢える日(セックス)は微妙に減っていったように思います。
 ただ小生は相変わらずロマンチックに耽り、彼女の子宮内に射精を繰り返していました。
 しかし彼女は彼女で、もしかしたら現実に思うことはあったのかもしれません。
 そこが今にして気になるのです。

 年末年始(学校時代なので冬休みですか)は一時的にデートもセックスも増えたと記憶しています。
 正月は2〜3日泊まりで札幌に2人で行って久しぶりに愛情に耽溺していました。
 夜になると一緒の部屋でずっとセックスでした。
 これは彼女が進学の資料をとりにいくのに付き合う秘密の小旅行でした。
 
 思えばその時に、彼女の関心が強く進学と東京に傾いたのは確かなようでした。
 しかし小生は目先しか見えていなかったのですね。

 決定的になったと…人生の悔恨の一言はしっかり覚えています。
 「俺は、そんな東京なんか行けるわけないよ。親も家もあるし、兄弟が下にひかえてるから。」
 と当時はそんなに意識することなく正直に言ってしまったと思います。
 
 彼女にとって、小生との愛情と、進学との、「選択」になるとは、小生は思いも寄らなかったのです。
 未熟者でした。

 この正月の札幌での泊まりの感動が、まったく何だったのかと思うくらい、実際その後は、彼女と逢えるのもセックスも激減しました。
 バレンタインデーの頃は、勢い情に素直になったからか、その日だけセックスまでいきました。
 何回か続けて、彼女の子宮内に温もりを思い出すように、渾身の力で射精。
 しかし、その次のセックスは高校3年生の夏でした。ただその時は、あまりに違った心境でしたが。
 何が起きたのかは、また機会があったら書きます。

 進学の関係とは別に、あの「直指庵」の女の子の思いと、何か関連する気持ちが、もしかしたら彼女にもあったのではないかと…ある時からずっと気になっているのです。
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メンテ
青春の思い出D ( No.5 )
日時: 2008/09/14 18:58
名前: 北国

 今の現実の相談を話し合うサイトでお邪魔をすることになってしまい失礼をお許し下さい。
 最初の質問から、だいぶテーマは変わってしまいましたが。
 もう2〜3回ほどで思い出話は終わりにして、話をまとめたいと思います。

 「青春に戻った」気持ちになってから、今にして、当時の心にわだかまっていた、熱いもの、激しいもの、疑問に感じていたことを、聞いてもらいたい、何か答えてもらいたいという衝動にかられています。

 小生も高校時代は友人に恵まれたと感謝していますが、やはり恋愛は「秘め事」で事細かく相談できる習慣はありませんでした。
 N子さんと小生が恋愛関係に進展していることはもちろん知られていました。
 「親友」であれば言葉に責任を持つので軽々しいことは言われませんでしたが、ふつうの友人程度からは「長いよな、結婚するんだろ」などと冷やかされました。「長い」というのは、初めに書いたように小学校から高校までずっと一緒の学校に通ったことです。さらに半分くらいは彼女と同じクラスでした。

 人口の少ない地域なので、同じ町から同じ高校に進んだ仲間の場合、ずっと同じ学校やクラスになるというのはそれほど珍しくはないことでした。
 私情として、N子さんを恋して愛した時間は、今でも人生の大部分のような印象です。当時は本当に長い「愛情の歴史」でした。結婚生活の長い夫婦の気持ちはこういうものかなと想像します。

 「結婚するんだろ」と言われて、こっそり嬉しくて気持ちは高ぶったものでした。
 しかし、周りからそう噂されるようになった頃は、何とも言えない不安や焦燥を覚え始めた頃でした。

 当時は自分を一般化してみることはできませんでしたが、セックスで男子は射精してしまえば感情的にも生理的にも満たされて、後は結ばれた喜びを感じるだけです。
 しかし、女子である彼女は、子宮という生殖器に小生の精液を貯蔵(?)し続けていたようなもので、文字通り「生殖」に繋がります。
 後年、性の話題を多く耳にする時代になってから、だんだんと彼女もそのことで悩みがあったのではないかと、小生も気になったものでした。
 やはり「直指庵」の番組で見た、婚前の妊娠で悩める女の子の姿は衝撃でした。

 当時は、「結ばれた喜び」を彼女も共有してくれているとばかり「感じて」いました。
 たしかに陶酔に耽っていた年頃だったと思います。
 「妊娠したらどうするの?」という言葉は、彼女は一度も言いませんでした。

 思えば小学校の頃から小生を気遣ってくれる場面がありました。
 中学までは体も気も弱くいじめられやすかった小生を、黙って慰めてくれるようでした。
 小生が落ち込んでいると、帰り道で待ってくれていて一緒に帰ったりなど。

 休んだ時にノートを貸してくれたり、漢字や英単語のテストの小生の間違いを丁寧にきれいな字で直してくれたり。

 思えば思春期は「優しい姉」のようでした。
 女の子の方が心も体も先に成長するそうですし、高校時代も男女の愛情や性愛だけでなく、そういう包容力で黙って受けとめてくれていたのではないかと思います(妊娠を気にしながらも?)。
 これは想像ですが、どうなのでしょうか?

 小生はそういう彼女にどこかで甘えていたのでしょうね。 

 ふり返って、高校3年生に上がる頃は、進路の関係以外に、彼女にはそういうセックスを続けていることへの悩みもあったのではと…。
 しかし、彼女は笑うと朗らかですし端正な顔つきだったので、人前では不安や悩みをあまり見せませんでした。
 ただ一人でいる時は、物憂げな目をしていることがよくありました。

 後年、気になったのは、その3月に彼女は学校を休みがちだったことです。
 行く必要もない時期でしたが、一週間以上続けて休んだ記憶があります。
 その後の手紙で、「いろいろとすることがあって」と一言ことわってから、いつものような話題を書いてくれていたので、「そうなのか」と当時は受け流していました。
 何となくですが、その後、彼女の体つきが変わった印象なのです。
 すっと通る曲線の張りというのか、前年の夏に初めてセックスした頃に覚えた新鮮なセクシーな魅力と、さらに官能が増した印象でした。
 小生にとっては不思議な気分でしたが。

 話を進めますと。

 高校3年生になると、手紙のやりとりが多くなっていました。
 学校の下駄箱(…と今は言わないのでしょうが)に入っていたり、休み時間に廊下や階段で渡してくれたり。
 家の郵便受けに届け合うこともありました。

 「なかなか逢えなくてごめんなさい」と、彼女は書き出してくれていたので、読む時はほっと癒されました。
 文面もいつものように丁寧でした。
 しかし、逢えなくなったこと、正確に言うと「逢ってくれなくなった」ことへの解決能力は、当時の小生にはなかったように思います。
 
 彼女と小生との進路の違いが原因なのは明らかでした。

 彼女は、彼女自身の希望、親の期待、放任でしたが多少は学校の期待もあったであろうし、大学に進むことは決定的でした。
 (当時は「大学進学」=「ほぼ東京へ行く」でした。)

 放課後、彼女は早く帰って受験勉強のようでした。
 汽車が一本違うと2時間は待ちました。
 授業が終わってすぐに帰るか、部活などで居残りをするかどちらかでした。
 夕方5時を過ぎるとバスもあり、融通は利きましたが。

 小生は進路不確定で悶々と一人で学校に残っていました。
 その頃に考えていたのは、やはり自分も彼女と一緒に東京に進学しようかということでした。

 しかし…家に帰れば、両親は「お前が高校を出てくれれば楽になる」と口癖のように言っていましたし、弟たちの学費を考えれば、小生の進学(まして上京)など夢のまた夢でした。
 両親にとっては、小生を「高校まで卒業させた」ということが誇りであり、親としての最終目標でした。
 弟たちの時代になってから、「大学」という認識がやっと出てきましたが。
  
 自分の心の核心にある夢(N子さんと結婚すること)と、現実の将来の形とが、まったく結びつかずに、心がさまよっている時期でした。
59.135.216.209
メンテ
青春の思い出E ( No.6 )
日時: 2008/09/14 19:00
名前: 北国

 今もつくづく感謝しているのは、彼女はそういう時期でも愛情を守ってくれたことです。
 もしタイムマシンがあれば、「ありがとう」と彼女に思いを伝えたいのです。
 逢えない分、夜更かしをしてまで丁寧に手紙を書いてくれていました。

 小生も、手紙の結びは「勉強頑張って。愛してる。」と書くしかなく、頑張ってほしい気持ちはもちろん真心からでした。

 ふだんの学校では一緒に授業を受けたり、休み時間に少しは話をして過ごしていました。
 しかし、ほかの受験組の仲間と同じく、彼女も休み時間は寸暇を惜しんで勉強しないわけにいかない様子でした。
 「ごめんなさい、先に帰るから」と言って下校する彼女を、周りに人がいないとちょっと体を触れたり、軽くキスをして見送ることもありました。

 5月の連休も彼女は札幌で受験勉強。
 かえって逢えなくなりました。
 
 小生は、彼女を想い生理的には自慰を繰り返す毎日にすっかり戻っていました。
 あきらめに近いような気持ちもありました。

 どうしても堪えきれなくなったのは6月でした。
 ちょうど彼女との初体験からまる1年が経った頃でした。

 生理的なきっかけはやはりブルマーでした。笑
 女子はジャージでなくブルマーで運動をする季節になり、男子も発情する季節なのか、重ねてあの姿は官能的すぎて、たまらないものでした。
 女性器の割れ目も、ふくよかなヒップも、ぴったりと紺色の下に輪郭は見えてしまいます。
 最低限の恥部しか隠さなかったというのも…。
 
 小生も、つい、おへそのあたりまで体操着(Tシャツ)が舞い上がる彼女の姿を目で追ってしまいました。
 ただ彼女はブルマーの端から白いパンティーが出て見えてしまうことは絶対になく、デリカシーは強かったと思います。
 
 性愛の欲求は、1周年という思いが強くそうさせました。
 当時の小生の日記にはその日を迎え、どうしても彼女と再びセックスで愛し合いたい思いが渾々と記されています。 

 6月は体育大会があり、その何日か前の放課後に部活対抗のリレーの練習をしていました。
 なりゆきで、久々にあの海岸まで一緒に走ろうと、帰りに彼女を誘いました。
 部活でよく走った「外周」というコースでした。

 「その記念の場所でセックスをしたい」という小生の堪えきれない気持ちは、瞬間的に彼女はわかったと思います。
 何ともいえない複雑な表情で見つめられましたが、黙って頷いてくれました。
 
 高校時代の一年一年というのは変化が大きいものです。
 ただもしかしたら、彼女の心身にもっと違う何かがあったのかもしれないのですが。
 
 小生にとっては、1年前の感動を再現するようでした。
 久しぶりに彼女のブルマーを脱がす感触に耽りながら、禁欲が限界を超えていたこともあり、あたふたしていましたが、まず覚えていること。
 パンティーが「変わった」という印象。純白は変わらずも、小振りでぴったり包む、両脇だったか薄いレースの入った、「大人のパンティー」といった雰囲気。
 以前の、「女の子のパンツ」という可愛い印象とは違いました。
 
 東京を意識し始めたのと、札幌の大都会に触れたことで、さらに彼女は洗練されたようでした。
  
 それと、1年前は「白桃」のようにきゅっと閉じていた女性器は、男性器を入れる前からすでに割れ目の内部が少し開いて見えました。 
 男性器を子宮まで貫いた瞬間、きつくて温かいのは同じでも、細かい波のような粘膜にさすられる快感が増して、たちまち射精。
 以前の、奥の子宮口を押す刺激で射精していたのとは、微妙に違う感じ方でした。
 
 1回目の射精の後は、初体験の時とは違う感動で放心。
 
 それから、2回目の射精にいこうと、強く抱きしめていた彼女の腰から、素肌を撫でながら、はっと変化を感じました。
 腰のくびれがもっとセクシーになり、体がぴちっと締まってきた感じでした。
 色白で、適度にグラマー、適度にスレンダー、という彼女の体は、高校3年生になって(その前の学校を休んでいた3月?)から、細身が増したようでした。
 受験勉強で痩せただけかもしれないですが。
 
 そしてブラジャーも、清楚なレースの洒落た雰囲気になっていました。
 (そもそも当時の女の子の下着は皆、白でしたね。)
 乳房も心なしか小さくなったのか、張りが出てきたような手触りでした。
 
 4か月ぶりに彼女の子宮内を精液でたっぷりと満たしました。
 しかし、小生自身も以前とは違う興奮を感じていました。
 以前のゆっくりと愛情がとけ合っていくような時間、幸せいっぱいの感情とは、違っていました。
 
 「N子、愛してる」という言葉も、やたら早口で心の中で焦燥で叫ぶようでした。
 もう精液も出し尽くしたような3回目の射精は、その時の小生の心理を表していました。
 全身が震えて、これでもかと言わんばかりに突き上げて、子宮の奥に擦りつけるようでした。
 
 「ずいぶん激しくなったのね」と、後で手紙に書かれてしまいました。
 情けなかったかもしれません。 
 
 どんどん洗練されて大人の「女性」に近づき、やがては、東京という手の届かないところへ行ってしまうであろう彼女に、小生は言葉にならない焦りを感じていたと思います。
 
 やっと起き上がって、すぐにパンティーとブルマーをはいた彼女の性器から精液が「こぼれてこない」のは、以前と同じだと思いましたが。
 
 翌日から、また彼女との逢瀬もセックスも意の如くにはならなくなっていきました。
 そして、忘れもしない、7月15日の彼女との最後のセックス、8月13日の最後の手紙。
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メンテ
青春の思い出F ( No.7 )
日時: 2008/09/15 00:56
名前: 北国

 大変長いことお目汚しを致しまして失礼をお許し下さい。
 この回で最後とします。
 
 いよいよ、N子さんと小生との愛情をどう守り続けていくのか、結論を出さなければならない時を迎えていました。

 手紙のやりとりは頻繁になり、しかしどうどう巡りでした。
 
 それまでは日常の素朴な情交で文面を綴っていた手紙が、急に現実的な話題になりました。
 男として自分の意志を明確に示すことができず、情けなくて、焦燥と悲嘆にかられるようになりました。
 彼女も親身に気を配ってくれながらも、どう小生にこたえたらよいのか、わからなくなっていたようです。
 
 今思うと、言葉を濁すしかないところに追いつめられていました。
 なぜかといえば、すでに状況としての結論はわかりきっていたからです。
 
 彼女は、東京のそれなりの大学に進学する、それは、将来も東京を拠点にそれなりの仕事に就く道を進むことでもあります。
 ついては、郷里に定住のために帰ることはなくなります。
 
 一方、小生は、家業に就くなら、郷里の田舎暮らしを続けなければなりません。
 
 もうどうしようもないことは…明らかでした。
 
 手紙ではらちが空かないので、時間をみつけて逢うこともありましたが、無為でした。
 とても情を交わすとか、ましてセックスなどできる雰囲気ではなくなりました。
 
 お互いの愛情を守り続けるために、どう将来を形づくるのか、考えてこなかった未熟さの悲劇でした。
 しかし思えば、当時にあっても、高校生にそこまで要求するのは無理だったのでしょう。
 
 家計や家庭状況までクリアする力量は、小生になかったのです。
 悔しい、情けない、そんな言葉では言い表せない、ただ叫ぶしかない心境でした。
 
 日記を繰り広げてみると、おそらく、7月10日頃にもらった彼女からの手紙。
 
 「恋とか愛してるとか、そういう気持ちだけでは語れない、もっと深いところで慕う尊い気持ちです。」
 
 小生の心に生涯残り続けていくであろう、彼女の思い、彼女の言葉です。
 
 その思いの高ぶった7月15日の日曜の午後、留守宅の彼女の部屋で抱き合いました。
 ただひたすらセックスをしないではいられない思いでした。
 
 彼女の服のボタンをどうはずし、どうブラジャーをはずし、彼女がどうスカートのホックをはずしてくれたか、パンティーを抜きとっていく感覚、女性器が見えてくる視覚まで、くっきりと覚えています。
 
 「愛してる」の言葉も言葉にならず、悲鳴を上げている心境でした。
 彼女の体を全部撫でて愛したい衝動でした。
 
 射精は全身でのけぞって、奥まで激しく子宮内に渾身の力を奮って打ちこんでいました。

 「N子、愛してる、なんでだ」と気持ちは叫んで、体の熱でお互いの心を感じ合っていました。
 男性器が痛くなっても勃起しなくなっても、文字どおり最後の一滴まで彼女の子宮に精液を注ぎたい、とても離れることはできない高ぶりを覚えています。
 
 これでN子さんが妊娠してくれたら結婚できる、ずっと一緒にいられる、もしかしたら半ば本能的に、追いつめられた小生は無意識に駆られていたのかもしれません。 
  
 思いたくはない、しかし、これからどうなるのか、予感できるものはありました。
 その日の彼女がはいていた純白のきれいなパンティーを、小生はもらって帰りました。
 (ブラジャーまでもらうのは躊躇したと記憶しています。)
 
 そして…案の定、これが彼女と結ばれる、最後となりました。
 
 あとは運命の告知を刻一刻と待つような、手紙のやりとりが続きました。

 8月13日に届いた、最後の手紙の結び。 
 「あなたが東京に来てくれること。私はそれだけを願っています。」

 N子さんから小生への、最後の最後の言葉でした。
 
 彼女との幸せを続けていくには、それしか方法はないと結論され、しかし、現実には不可能なのは言うまでもなくでした。
 
 あの、二人の結ばれた思い出の海岸に一人で何度もいっては、小生は大泣きしました。
  
 それから、彼女はしばらく物憂げな目をしていました。
 小生が東京に進学しなければ復縁はないと覚悟を決めたのだと思います。
 努めて一顧だに与えてくれませんでした。
 
 やがて、それは彼女自身の受験への覚悟に変わっていったのだと思います。
 
 卒業式の日、久しぶりに遠目に見た彼女は、なんと清楚で美しかったこと。
 自信と将来への希望で輝いて見えました。
 小生にとっては、学生時代、青春、そして最愛のN子さんとの別れの涙に暮れた日でした。

 (25歳になって、彼女から「結婚します」という報告が舞い込んだ時、小生は放心して丸2日、仕事を休みました。) 
 
 N子さんとのかけがえのない愛情の絆を失ってから、ついにほかの幸せに出逢うことはありませんでした。

 家業と両親の面倒、弟や妹たちの人生の立つように、若い頃は懸命に働きました。
 30歳代半ばからはいよいよ過疎地での両親の老後の問題に立ち向かってきました。
 
 つまり自分の恋愛も結婚もすべて後手に回ってきました。
 結果として伴侶も家庭も得られず、幸せというものは、現実の形として小生の人生にはありません。
 これから独り身の生の終え方を考えていかなければならない頃でしょう。
 
 若い頃は、精神的にも生理的にもひたすら苦しみました。
 N子さんを失った心の空洞、それは自分自身の喪失でもありました。
 情けないことに、20歳代は毎晩のように自慰、40歳になっても性欲は自慰でどうにかしてきました。
 30歳代の頃は、女性を抱く機会のない自慰によるストレスで苦しみました。
 
 しかし、今思うに、小生は心の中に永遠の最良の幸せを持っているのだと得心しています。
 
 それは、最も理想とする女の子に出逢い、最も多感で純粋な年頃に愛情を結び、最愛の相手とだけ子供を授かっても当然であろう性交で満たされ、一点の翳りもない、詩や文学を超えた素敵な現実の絆を結ぶことができたからです。
 
 小生ごとき一個人が老いて死のうと、この思いだけは真実として残ります。 
 
 ただ、「一線を越えて」彼女と結ばれてから、セックスの矛盾を放置して耽溺し続けたことは、高校生にして妊娠という危険を常に孕んでいました。
 N子さんを妊娠させるには至らなかったと、長い間ずっと認識していましたが、今になって当時を克明に思い出しては、もしかしたらという疑問も心に浮き上がっています。

 今は、コンドームが一般的なのでしょうが、若くして絆を脅かす「望まない妊娠」を避ける方法はたくさんの選択肢があると聞きます。
 あの「直指庵」の悲しみは、遠い遠い昔話になっているのでしょう。
 
 ただ愛情の喜びのために、どうしてもコンドームなどの隔てなくセックスで結ばれたい思いもあるでしょう。
 男子の精を女子の子宮に送り届けることは、この上ない情交の喜びです。
 それでお互いの愛情もいっそう深まります。 
 そういう場合は、二人の相談で、妊娠のありえない安全日に限るとか、「絆のためのきまり」を設けてはと思います。 
 
 避妊、避妊とこだわっても完全ではなく、セックスをすればいずれ妊娠するでしょう。
 そもそも愛の結晶を作る行為なのですし、高校生であろうと社会人であろうと、もしも赤ちゃんができたらどう乗り越えていくのか、お互いの愛情の試練の用意は心得ていてほしいと、小生の青春時代の反省をこめて思います。
 (それでくじける愛情なら嘘でしょうし、心に偽りのあるなら婚前のセックスはするべきでないと思います。) 
 
 現在は、小生の高校時代には想像もできなかったほど、生活にも情報にも恵まれています。
 それらを猟奇的な本能欲求を晴らす凶器とすることなく、幸せを実現し持続するために活かしてほしいと願います。 
 
 幸せというのは、愛する人と絆を結んでお互いに尽くし合うことです。
 それが、個人の幸せを超えて、世の中や皆の幸せに繋がっていくはずです。
 
 いちばん純粋で熱い心をもつ青春時代に最愛と思える人と出逢えたら、その相手は生涯で最も大切にできる伴侶になると信じます。
 誠実に賢明に、ときに困難を乗り越えて、大切に大切に、そして幸せを築いて下さい。 
 
 老婆心ながら、これから愛する人と結ばれていく若い方には、そのように願い祈ります。
 
 長々と、意図外れの思い出話を書かせて頂きました。お許し下さい。
59.135.216.209
メンテ

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